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『魂の紀行』 別章 キョウヨアケタゼヨ-14

 
< ヒーリングから離れた20年間 その3 >
 
北海道へ戻った私を
待っていたのは、
なんと、銀行員生活でした。
 
 

「お前は、経済のことを
 何も知らないから
 家業に戻って来る前に
 お金の勉強をして来なさい」
 
 

という、典型的なコネ入社・・・
 
 

でも、入ったからには
頑張らねば、ということで、
朝は7時までに出社、
夜は10時過ぎまで、銀行業務に励みました。
 
 

1円でも合わなければ
永遠に帰れない、
という厳密さ・・・
 
 

これまでのゆる〜い生活とは
真逆の世界に戸惑う毎日(笑)
 
 

お昼ご飯を食べる間も
惜しんで、
得意先回りと
新規開拓に努めました。
 
 

まさに、テレビドラマ
『半沢直樹』の世界!!
 
 

そんな平成6年12月24日、
現在の奥さまと入籍。
 
 

2年間の銀行員生活を
無事終えることができたのも、
こころの込もった
温かい手料理と
優しい笑顔のおかげだと思います。

 
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銀行員時代。真面目に仕事してる感じでしょ?
 
 

平成8年春。
 
 

銀行生活を終えた私は、
家業を継ぐ為に、
実家のある道南へ引っ越しました。
 
 

中学1年生で家を出て以来、
12年ぶりに住む生まれ故郷。
 
 

 中学で家を出た理由は
  → コチラ
 
 

奥さまと一緒に、
新しい生活のスタートです。
 
 

実家は、もともと
人口4,000人ほどの田舎町で
製材業を営んでおり、

需要に応じて
事業を広げながら、
従業員300名ほどの
建築・土木の総合商社に
成長していました。
 
 

「先ずは、原点の
 製材工場から
 経験してみるといい」
 
 

社長でもある
父のアドバイスで、
木材を加工する工場へ配属決定です。
 
 

銀行でのスーツ姿は
作業着へと替わり、

デスクワークが
肉体労働になりました。
 
 

2年目は、
製材や建材を
現場へ配達する4トン車の運転手。
 
 

3年目は、
建築・土木資材を
業者さんに販売する営業マン。
 
 

配属先こそ
毎年違うセクションでしたが
「石の上にも3年」
とはよく言ったもので、
会社の全体像が
何となく見えてきました。
 
 

そして迎えた4年目(平成11年)

北海道主催の
「中国視察ツアー」から戻った
社長から、
1つの提案がありました。
 
 

「これからは、中国にも
 足がかりを作っておく
 必要があると思う。

 先ずは、ウチの会社で
 扱えそうなモノを
 仕入れて売ってみたい。

 新しいセクションの
 責任者として、
 やってみる氣はあるか?」
 
 

いきなりの中国進出宣言!
 
 

しかも、
何を仕入れるかもわからないのに、
責任者やってみるか?
って・・・
 
 

ところが、
なぜかこの時、
何の迷いもなく
引き受けてしまったのでした。
 
 

それも、
かなりノリノリで。
 
 

いま思えば、
この時の「ワクワク感」は、

今生でのシナリオを指し示す
道しるべだったのかな、と思います。
 
 

こうして平成11年に
社内ベンチャーとして
立ち上がった輸入事業部が、

後々エヌ・ピュアの
前身になるとは、
この時まだ思ってもいませんでした。
 
 
 

追記
 

平成8年春から
住み始めた故郷の住宅。
 
 

引っ越してすぐに
住居のヒーリングをおこないました。
 
 

すると翌日、
2階の床のあちらこちらに金粉が・・・
 
 

けっこうな量だったので、
とりあえず
掃除機で吸ってみましたが(笑)、
 
 

翌日も、そのまた翌日も、
金粉は現れ続けました。
 
 

たしか、1週間ほどで
収まったように記憶していますが、

その頃は、
タンスの中の服にも
金粉がついていたり、
手に七色の金粉が現れたり、と
金粉ショーさながらの状態でした(笑)
 
 

 高校生ヒーラー時代の
 金粉話は → コチラ
 
 

そうそう、
子供たちが生まれた時も、
顔に金粉がついていたんですよ。
 
 

おかげさまで2人とも、
とてもおめでたい感じに育っています(^_^)
 
 
 

〜 鳴海周平の
 ヒーリングについて 〜

現在、個人的な相談や
ヒーリングは行っていませんが、

各地で開催しているお話会では
皆さんへ「一斉ヒーリング」を
させていただいています。

どうぞお気軽に
遊びにいらしてくださいませ(^_^)
 
 
 

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