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『魂の紀行』 別章 キョウヨアケタゼヨ-15

 
< 波動(HADO)という考え方との出会い >
 

当時の社長の「鶴の一声」で
スタートした
社内ベンチャー・輸入事業部。
 
 

何を輸入するのかも
よくわからないまま(笑)

「とりあえず、
 現地に行って情報の収集を」

という社長命令で、
中国の広州へ。
 

1年に2回開催される
広州交易会への参加が目的です。
 
 

広州交易会は、
世界各地からさまざまな
商材が集まってくる
中国の一大イベントで、
企業の出店数は
2万ブースにも及びます。
 

2万軒の露天が並んでいる
お祭りのようなイメージ。
 
 

「これだけいろんな
 物があったら、
 何か見つかるだろう」
 

という、
相変わらずお氣楽な考えで
まわり始めてみたものの、

なかなか
「これ!」といった
商材が見つかりません。
 
 

当時の本業だった
建材の類いも

「安かろう悪かろう」

といった感じで、
価格の安さよりも
リスクの方が氣になってしまいます。
 
 

滞在中、何日間も
通い詰めましたが、

けっきょく
めぼしいものを見つけることは
できませんでした。
 
 

ただ、
何度も通っているうちに
顔見知りになった中国人から、
面白いものを貰いました。
 
 

「これは仕事には
 関係ないんだけど、
 お土産にプレゼントします」
 
 

そう言って、
いただいたのは、
現地の滋養食「蜂の子」
を、そのまま乾燥させて
粉末にしたという食品。
 
 

「これ、僕の元氣のモトね。
 中国では2200年以上も昔から、
 氣の流れを良くしてくれる食材
 と云われてます」
 
 

なんで、この人
いつも元氣なんだろう?

ずっと、そう思っていた理由を
教えてもらったようで、
思わず納得。
 
 

いただいた「蜂の子」を、
早速その場で口にしてみました。
 
 

たしかに、
からだの奥の方から
元氣が湧き上がってくるように感じます。
 
 

「おっ、コレは凄いかも!!」
 
 

この出会いが
きっかけとなり、

輸入事業部第1弾の仕入れ商品は
「蜂の子」
に決定したのでした(笑)
 
 

「建材屋が
 健康食品を売るなんて・・・」
 
 

本業とは、あまりにも
かけ離れた新規事業に、
役職員の多くは、あまり
乗り氣ではありませんでしたが、

1年間の準備期間を経て、
何とかスタートに
漕ぎ着けることができました。
 
 

社内ベンチャーとして、
「蜂の子」の健康食品販売を
スタートした翌年の2001年。
 

「経営指導の神様」
と呼ばれていた、
経営コンサルタントの
舩井幸雄先生と
ご縁をいただきました。
 
 

舩井先生は、当時
「直感力研究会」
という、
目に見えない世界を探求する
勉強会を開催していて、

私も、会員として参加させて
もらえることになったのです。
 

船井先生 (1)
直感力研究会のツアーで訪れた明智平で、舩井幸雄先生と。

 
ヒーリングなどを通じて
目に見えない世界を
探求してきた私にとって、

ここで学ぶ内容は、毎回
とても興味深いことばかり。
 
 

中でも「波動」という概念は、
自然界の摂理(宇宙の法則)
そのものだと感じました。
 
 

「波動の4原則」

 1 同じものは引き合う

 2 違うものは排斥し合う

 3 出した波動はフィードバックされる

 4 波動には優劣があり、
  優位の波動は劣位の波動をコントロールできる
 
 

波動とは、生命やモノを
構成する最小単位であり、
源(エネルギー)。
 
 

原子レベルで発生する
物質固有の微弱磁場
とも考えられるもの、だそうです。
 
 

「この波動を
 測定できる人がいる」

と、舩井先生から
紹介いただいたのが、

波動測定者の
山梨浩利さんでした。
 
 

山梨さんは、
長年大手食品メーカーの
研究開発に携わってきた中で、

波動測定者としての
「素質」を見出され、
さまざまな実験において
波動の存在を証明。
 
 

科学者が公に認めた
「波動測定者」
としても知られていました。
 
 

山梨さん曰く、
波動測定では主に
3つのことがわかるそうです。
 
 

 1 こころとからだの健康チェック

 2 物体の波動性計測

 3 物体どうし、人と物体の相性計測
 
 

これらを知る方法としては
「O-リングテスト」
が有名ですが、

波動測定は、この

「O-リングテストを
 数値化したもの」

と言えるかもしれません。
 
 

私も実際に体験してみて、
その正確さに驚きました。
 
 

山梨さんは、
何の前情報もない状態で、
ただ淡々と測定をしていく
だけなのですが、

健康状態はもちろん、
持ち込んだサンプル品の特性が
どんどん数値で、正確に
明らかになっていくのです。
 
 

「これは、
 目に見えない世界がわかる
 凄いツールかもしれない!」
 
 

山梨さんとの出会いを
きっかけに、
「蜂の子」の健康食品は
新たなステージに
進むことになりました。
 
 

波動測定でわかる
「物体の波動性」と
「物体どうし、人と物体の相性」
から、

「波動の高い健康食品を開発する」

という試みです。
 
 

こうして2001年からスタートした
「波動の高い製品づくり」は
新しい事業部の柱となり、

エヌ・ピュアとして独立起業した
現在にまで至っているのです。
 

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山梨さんによる波動測定の様子。
原料単体の測定後、相性や配合比率を測定し、
もっとも波動の高い状態を探っていきます。
 
 
 

山梨浩利さんの「波動のお話
 
 
 
 

〜 鳴海周平の
 ヒーリングについて 〜

現在、個人的な相談や
ヒーリングは行っていませんが、

各地で開催しているお話会では
皆さんへ「一斉ヒーリング」を
させていただいています。

どうぞお気軽に
遊びにいらしてくださいませ(^_^)
 
 
 

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『魂の紀行』 別章 キョウヨアケタゼヨ-14

 
< ヒーリングから離れた20年間 その3 >
 
北海道へ戻った私を
待っていたのは、
なんと、銀行員生活でした。
 
 

「お前は、経済のことを
 何も知らないから
 家業に戻って来る前に
 お金の勉強をして来なさい」
 
 

という、典型的なコネ入社・・・
 
 

でも、入ったからには
頑張らねば、ということで、
朝は7時までに出社、
夜は10時過ぎまで、銀行業務に励みました。
 
 

1円でも合わなければ
永遠に帰れない、
という厳密さ・・・
 
 

これまでのゆる〜い生活とは
真逆の世界に戸惑う毎日(笑)
 
 

お昼ご飯を食べる間も
惜しんで、
得意先回りと
新規開拓に努めました。
 
 

まさに、テレビドラマ
『半沢直樹』の世界!!
 
 

そんな平成6年12月24日、
現在の奥さまと入籍。
 
 

2年間の銀行員生活を
無事終えることができたのも、
こころの込もった
温かい手料理と
優しい笑顔のおかげだと思います。

 
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銀行員時代。真面目に仕事してる感じでしょ?
 
 

平成8年春。
 
 

銀行生活を終えた私は、
家業を継ぐ為に、
実家のある道南へ引っ越しました。
 
 

中学1年生で家を出て以来、
12年ぶりに住む生まれ故郷。
 
 

 中学で家を出た理由は
  → コチラ
 
 

奥さまと一緒に、
新しい生活のスタートです。
 
 

実家は、もともと
人口4,000人ほどの田舎町で
製材業を営んでおり、

需要に応じて
事業を広げながら、
従業員300名ほどの
建築・土木の総合商社に
成長していました。
 
 

「先ずは、原点の
 製材工場から
 経験してみるといい」
 
 

社長でもある
父のアドバイスで、
木材を加工する工場へ配属決定です。
 
 

銀行でのスーツ姿は
作業着へと替わり、

デスクワークが
肉体労働になりました。
 
 

2年目は、
製材や建材を
現場へ配達する4トン車の運転手。
 
 

3年目は、
建築・土木資材を
業者さんに販売する営業マン。
 
 

配属先こそ
毎年違うセクションでしたが
「石の上にも3年」
とはよく言ったもので、
会社の全体像が
何となく見えてきました。
 
 

そして迎えた4年目(平成11年)

北海道主催の
「中国視察ツアー」から戻った
社長から、
1つの提案がありました。
 
 

「これからは、中国にも
 足がかりを作っておく
 必要があると思う。

 先ずは、ウチの会社で
 扱えそうなモノを
 仕入れて売ってみたい。

 新しいセクションの
 責任者として、
 やってみる氣はあるか?」
 
 

いきなりの中国進出宣言!
 
 

しかも、
何を仕入れるかもわからないのに、
責任者やってみるか?
って・・・
 
 

ところが、
なぜかこの時、
何の迷いもなく
引き受けてしまったのでした。
 
 

それも、
かなりノリノリで。
 
 

いま思えば、
この時の「ワクワク感」は、

今生でのシナリオを指し示す
道しるべだったのかな、と思います。
 
 

こうして平成11年に
社内ベンチャーとして
立ち上がった輸入事業部が、

後々エヌ・ピュアの
前身になるとは、
この時まだ思ってもいませんでした。
 
 
 

追記
 

平成8年春から
住み始めた故郷の住宅。
 
 

引っ越してすぐに
住居のヒーリングをおこないました。
 
 

すると翌日、
2階の床のあちらこちらに金粉が・・・
 
 

けっこうな量だったので、
とりあえず
掃除機で吸ってみましたが(笑)、
 
 

翌日も、そのまた翌日も、
金粉は現れ続けました。
 
 

たしか、1週間ほどで
収まったように記憶していますが、

その頃は、
タンスの中の服にも
金粉がついていたり、
手に七色の金粉が現れたり、と
金粉ショーさながらの状態でした(笑)
 
 

 高校生ヒーラー時代の
 金粉話は → コチラ
 
 

そうそう、
子供たちが生まれた時も、
顔に金粉がついていたんですよ。
 
 

おかげさまで2人とも、
とてもおめでたい感じに育っています(^_^)
 
 
 

〜 鳴海周平の
 ヒーリングについて 〜

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ヒーリングは行っていませんが、

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『魂の紀行』 別章 キョウヨアケタゼヨ-13

 
< ヒーリングから離れた20年間 その2 >
 

I先生の密葬からの帰路、

佐賀空港までのバスの中、
東京までの飛行機の中、
そして羽田空港での夕食と、

ほんの数時間の間にすっかり
打ち解けてしまった私たちは、

3月に東京でおこなわれる
I先生の社葬での再会を
約束して別れました。
 
 

そして迎えた3月。
 
 

社葬の席で、Y先生から
思わぬ提案を受けます。
 
 

「よかったら、
 7月にオープンする
 ウチのクリニックに来ない?

 住むところも
 用意しておくから!」
 
 

ここで流れに逆らわないのが、
私のポリシー。
 
 

「はい、私でよければ喜んで!」
 
 

こうして平成5年7月から
東京高田馬場のYクリニックで、

事務職兼腰痛専門の整体師
として勤務することになりました。
 
 

思えば、
幼少の頃から抱いていた
「医者」
という夢のきっかけは、
ひいばあちゃんの腰痛。
 

ご縁というのは、
本当に面白いものです。
 
 

東京での日々は、
本当にあっという間でした。
 
 

整体師と事務職を
兼業しながら、
合気道や呼吸法の道場に通う毎日。
 
 

Y先生と先輩の整体師さんが
教えてくれる
「からだの仕組み」や
道場で学ぶ「氣の概念」は、

ヒーリングで
心身が癒されていく
仕組みを知りたい、
という想いを
徐々に満たしてくれました。
 
 

「このままずっと
 ウチで働いてくれたらいいのに。

 夜間でよければ
 大学にも通えるし」
 
 

Y先生からのありがたい言葉。
 
 

いつものように、
流れのまま受け入れたい
氣持ちは山々です。
 
 

しかし、
22歳になった私は、正直、
これからの進路について
決めかねていました。
 
 

北海道の実家が営む
家業を継いでほしい、と、
もうずっと言われ続けていたのです。
 
 

「このまま東京で
 勉強を続けていたいけど・・・」
 
 

魂の声に耳を澄ませた結果、
お世話になったY先生のもとを
翌春で退社することに決めました。
 
 

スタッフの方々とも
仲が良かった分、
名残惜しい想いが募ります。
 
 

平成6年春。
 
 

北海道に戻った私を
待っていたのは、
なんと銀行員生活でした・・・。

 
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Y先生のもとで整体師をしていた頃。
 

 
 
 

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